欺騙と自己欺瞞の進化論 E. L. Milam, "A Field Study of Con Games"

Erika L. Milam, "A Field Study of Con Games," Isis 105 (2014): 596-605.

http://www.jstor.org/stable/10.1086/678175

 

ABSTRACT

 進化生物学者のRobert Triversとブラックパンサー党の設立者のひとりであるHuey P. Newtonは、1978年に自己欺瞞の進化論についての共同研究を開始した。彼らはワシントンDCで起きたエア・フロリダ90便の墜落事故を説明するため、欺騙と自己欺瞞の自然主義的なアイデアを用いた簡潔な論文を発表した。そして、人間の行為における自己欺瞞を生物学的に筋の通った本性的なものとして確立させようとしたが、その取り組みは成功しなかった。人間の振る舞いについての生物学的分析において自然や本性的なものへの訴えが普及していた20世紀、そうした主張のほとんどは人々に前向きに受容されたはずであった。ではなぜ彼らは失敗に終わったのか。著者は本論考において、TriversとNewtonの決して目立つことのなかった功績に着目し、科学者が新しい理論を人々に受け入れてもらう過程で直面する困難の大きさを強調する。

 1982年1月13日、雪の降るワシントン・ナショナル空港を発ったエア・フロリダ90便は離陸後1分もたたずにポトマック川に墜落した。乗員乗客78名が死亡する事故となった。調査にあたった国家運輸安全委員会は、降雪に基づく小さな不具合の複雑な連関がその事故を引き起こしたのだと指摘した。このときTriversはその報道に食い入るように注目していた。なぜならこの事故で昆虫学者の友人をひとり失くしていたからである。コックピットのボイスレコーダーに収められた操縦士と副操縦士の事故直前の会話が報道され、Triversはその内容についてNewtonと話し合った。副操縦士は機体が危険な状態にあると認識していたが、操縦士の方は衝突の数秒前までそれを否定していた。それは自己欺瞞の典型的な事例であった。彼らはそうして操縦士の自己欺瞞こそが災難を招いた主要の原因であったと結論づけた。

 

AN EVOLVING FRIENDSHIP

 Newtonはブラックパンサー党に関わり始めた頃から騙す行為の研究に魅了され、白人社会が黒人の抑圧を正当化しようとする社会的行為、あるいはそのような社会の中で白人が出世するための方法を説明するために欺騙や自己欺瞞の考え方を用いた。一方のTriversは若い頃に学んだ天文学と数学を続けることをやめ、男女間や親子間の人間関係において起こる様々な問題に解明の手掛かりを与える進化論に傾倒していった。そしてこの観点から欺騙と自己欺瞞の研究に魅了されるようになっていた。彼らは知り合うとすぐに友人となり、学術活動以外の面でも親密になった。自己欺瞞の進化論についての共同研究では、両者がともに各人の専門性を発揮して取り組んだ。Newtonは人間の振る舞いについて彼の個人的な経験を共有し、Triversは数学的な洞察力と知識で貢献した。

 彼らは欺騙や自己欺瞞が自然主義的に着手されなければいけないと信じていた。そこで騙すことの能力は人間の社会的本質から生じているのだと仮定し、社会における全ての搾取的・抑圧的な関係はその本来的な自己欺瞞によるものであると論じた。さらには、彼ら自身の友人関係の中にさえこうした騙す行為が深く関わっていると見なすようになった。

 

THE TEACHER CON

 TriversとNewtonが共同研究の成果を記した本は、動物における欺きや報復手段の事例に関する章から始まり、後方の章では人間に関することも扱った。人間における欺騙や自己欺瞞も動物の振る舞いの生物学的な分析から長い時間をかけて発展してきたものであるということが論じられた。野生動物が威嚇により実際に交戦する必要なしに敵を退散できるという経験をするのと同じように、操縦士は機体の除氷が職を失うことにはならないというポジティブなフィードバックを積み重ねる。しかし、そのような自己欺瞞の戦略は短期的には利益になるが、本当の危機が訪れた瞬間には必ず災難を導く。なぜなら自己欺瞞者は現実を扱う能力に欠けているからである。

 見込みのある時期にも関わらず、ついにこの本が光を当てられることはなかった。そして2人の友人関係もほころび始めていた。著者はここで、TriversとNewtonの理論が彼ら自身の関係の中にも当てはまることを指摘する。彼らは出会った当初には、NewtonがTriversを自分の先生と例え、その天才的な頭脳で新しい理論をつくりあげようと嗾けていた。しかし、今となってはTriversはNewtonから受けたそのような“teacher con (先生だと思い込ませる詐欺)”を拒絶し、もはや彼の先生などではないと考えた。Newtonが亡くなった後、Triversは欺騙と自己欺瞞の進化論に関する論文をいくつか発表したが、それらは彼自身の専門性により論じられたものでありNewtonの扱った題材からは遠く離れたものであった。2011年に出版された最新の学術書においてでさえ、Newtonとの共同研究で仕上げた本や友人関係などについては触れられなかった。

 

MUTED RECEPTION

 人間の振る舞いにおける自己欺瞞を自然的なものとして分析すべきだという彼らのアイデアに注意を払う生物学者は少なかった。Triversの同僚も皆、彼の学問上の立場に賛同的ではなかった。1980年代を通じて起こった社会生物学を巡る論争において、多くの進化生物学者は人間性を正面から論じるよりも、動物の振る舞いに固執することを好んだ。1990年に進化心理学が学問としての地固めをなされて初めて、Triversの理論にも耳を傾ける聴衆が現れた。しかし、そのようなときでさえ、彼の自己欺瞞に関する考え方は明らかに回避された。

 ではNewtonとTriversの試みから学ぶべきことは何なのか?それは、たとえこのような時代において人間の振る舞いの特徴を自然に訴えることは比較的に簡単にできたとしても、そのアイデアにメリットがあることを他者にまで説得しようとするならばはるかに多くの仕事をすることが必要であった、ということであると著者は主張する。誰も彼らの自己欺瞞の考えを疑似科学であると批判しはしなかったし過小評価することもなかった。ただ、Triversの他の出版物の圧倒的な人気との対照においてのみ、NewtonとTriversの共同での努力は失敗と見なされたのであった。確かに19世紀に自然主義的誤謬を確立させようと努めた科学者や哲学者は、個人の成長や振る舞いの原因を科学的に分析する言葉を設けることに成功した。しかし、その自然主義的な推論の力により、どんな1つの理論を発展させる上にでも生じるであろう困難が覆い隠されてしまってはいけないのである。

神経科学におけるアイデンティティの確立 S. T. Casper, "History and Neuroscience"

・Stephen T. Casper, "History and Neuroscience: An Integrative Legacy," Isis 105(2014): 123–132.

http://www.jstor.org/stable/10.1086/675554

 

ABSTRACT

 ニューロカルチャーは1980年代の後に、人間の振る舞いの神経学的な説明において経済的、司法的、規範的な意味を見出した社会文化的な様式として出現した。それは神経により提供される力強くも柔軟なメタファーによっている。この儚いメタファーにより強化された神経科学の学問は“脳の”あるいは“神経科学の”ものそれ自身としてのアイデンティティを確立した。

 ニューロカルチャーの主張は神経系の器官に対して社会基準、法律学、経済行為、そして人間の歴史にさえ自然的な基礎を生み出すような普遍的性質を吹き込む。歴史的には、そのような普遍主義はビクトリア朝の時代から、思考や脳に関心をもつ優れた臨床医や科学者のレトリックにおいて現れてきた。普遍主義の支持者は神経系を身体と思考とを統合するものとして概念化し、神経系の科学と生物学、医学、思考との間にある重なり合う関係を主張した。普遍主義と統合のレトリックはそうして、身体の理解とその時代の文化的切望を焦らすことの両方に光を当てるような神経系について考えること、話すこと、働くことの意味を提供した。

 

CIVILIZATION, MODERNITY, NERVED: SYNONYMOUS DOORS

 1929年のF. Buzzardの講義は、神経系の解剖学的、生理学的、病理学的、臨床的な観察の概観から始まり、神経学は教育者や社会学者が耳を貸す必要のあるような真実を含んでいる豊富な証拠がある、という主張にまで及んだ。しかしより一般的には、この講義はクリミア戦争から世界大恐慌に及ぶまでのイギリスの近代性を支配してきた膨大な問題に注意を引き起こす。彼の父Thomasの神経疾患の専門性を持ち合わせた医師としての功績と、息子Farquharのもつ運動能力が、個の遺伝的な体質や体力についての文明の存続をますます予言した文化を指摘したのである。

 それにも関わらず、専門家の注目すべき傾向は、彼らの知識の卓越性を公に示すことであった。彼らの知識や目的が文明の中心にあったのだと宣言した。例えば、S. Spahrにとって、あらゆる社会的・道徳的事実が精神活動から生じることや、神経学や心理学が永遠に“自然における人間の位置や運命”を解決するであろうことは明らかであった。19世紀と20世紀初期の医師や科学者たちは、欠陥のある神経機能を、社会的悪性や文化的退歩の根源であると主張した。これはビクトリア朝の科学と医学から、大衆文化、広告、そして恐らくは迷信とさえいったものへと伝承された言い回しであった。 

 

THE INTEGRATIVE WAYS AND MEANS OF UNIVERSALISM

 H. Spencerは“私たちにおける子どもと大人の思考”に見られるそれらの違いの追憶として、野蛮な思考と文明的な思考とを見事に比較してみせた。彼にとって神経系の中に見られる機能の特殊化は、文明の進歩やあるいは崩壊を映し出していた。イギリス精神学の開祖とされるJ. H. JacksonにとってのそれはSpencerの偶像よりも制限されたものであった。社会漸進的な進歩は、神経学者を医学の統合的な労働者として専門家の役割を果たすような存在にした。神経系は身体と思考の組織を統合した。そしてまた、JacksonやT. Buzzardらは1886年にロンドン神経学協会を創設し、その初代名誉会員にSpencerを選任することで、医学の社会的準備をも統合した。

 神経学者のH. Headは“中枢神経系の機能はパリンプセストではなく、そこでは新しい文書が以前の原稿を書き換え、部分的に消去される。より原初的な行いは、新しい中心の出現により大いに修正される”として統合的な理想を表現した。Head独自の考え方は、近代的な人類学、社会学、精神学、そして心理学の広い潮流を特徴づけ、そのような知識を超歴史的な存在とする見方を許した。統合的観点が支持したそのもっとも明確な仮説は、病理学的な状態が個人の患者の病歴だけでなく、特定の人間性の経歴をも明らかにしたというものであった。神経は人間生理学と人間心理学とを、そして究極的には広範な文明とを繋ぐ、統合的なシステムであると宣言された。

 

SUPERSTITION, SELF-HELP, AND NORMATIVE SOCIOLOGY

 精神的特徴の進化の問題は、自然淘汰の支持者たちに論争を生み出し、彼らをゴシックとフィクションの世界へと立ち入らせた。それらの著者たちは、人間の神経系を、直ちに個人の弱さの源、社会的な後退、そして文明の進歩として指摘する。その傾向は、R. V. Pierceにより脳、脊椎、神経といった身体の器官の解説と一緒に説明されている。彼によると現代は工学、電気の時代であるとともに神経質の時代である。神経の興奮や弱さを意味する神経質は、その時代の強さを増す悪弊、その時代の生理学的特徴である。社会、科学、ビジネス、技術、文学、そして宗教にさえ、不安な精神や、無慈悲にもその被害者に駆り立てる競争の熱意が浸透している。

 Pierceはまた、異なる人種を試験すると大脳半球の成長と知的能力の成長のあいだの対応関係の証拠を発見するとして、人種問題も持ち上げた。ここではアフリカのブッシュマンを取り上げ、原始的な人は文明化された近代性の出現により修正されてきたのだと主張した。人種、階級、退化についての議論がヨーロッパと北アメリカを通じて多くの目的を提供するのは自明のことであった。そのより良い視点は、普遍的に共有された本質的な存在を結論づけることではなく、むしろこの神経の心象が柔軟であり豊かなメタファーであったということである。要するに、それは多様な目的に適しており、説得の手段として著しく有用なものであった。

 

HOW POSTDISCIPLINARIANS BECAME NEUROLOGIANS

 どの科学の歴史家や社会学者も、1945年以降の神経学の世界的な成長を説明したり、基本的、臨床的、そして社会的神経科学と広く名づけられた学問分野の急増に対する説得力ある説明を生み出したりはしなかった。1958年にW. R. Brainが神経学を次のように定義している。即ち、神経学は生理学、精神医学、病理学、細菌学、外科学、その他の学問分野において疑いなく役割を果たし、これらの全ては神経学への貢献がある。そして神経学者はこれら全ての領域の専門家にはなり得ないが、教育、経験、そして神経学との関係において節点となる機会により、最も適した人物である。

 あるいは生理学者のJ. Z. Youngは“私たちの科学が、残りの全ての学問の基本である神学と競い合う過程にあることを誇りに思おう”と述べた。Youngのこの言明は、現代のニューロカルチャーの宣言として解釈されるだろう。“過去において、私たちは解剖学者なのか、生理学者なのかそれとも生化学者なのか、心理学者なのかそれとも薬理学者なのかが確かでなかった。しかし今、私たちはアイデンティティを持っている…私たちは神経科学者である”

 

CONCLUSION: CIVILIZATION’S INTEGRATIVE JUNGLES

 神経学者のC. J. Herrickは著書『人間性の進化』の中で“ジャングルの法則”について言及し、文明の“積極果敢な闘争”とその“商業的利用や巧みに人を欺くような宣伝による巧妙な服従の方法”には“私たちが心に抱いた全ての価値の全面的な破滅”の恐れがあるだろうと記した。ジャングルの野蛮と文明のようなものは、統合的な理想の遺産であり、膨大なレトリックの辛辣さと普遍的な強い願望とによる脅威と希望の二重性であった。

 ニューロカルチャーにおいて私たちは科学と医学の歴史に対する全く異なる問題に直面する。これらの論評者は、それにおいて過去の専門家たちによるアイデンティティ形成の努力の産物が、認知的な科学や医学の実際的な目標、つまり新しい坩堝としての脳の科学や医学の彼らの構想に適った考え方となってきたような、科学、医学、バイオパワーの閉じた世界を占めるようである。

ラテンアメリカの人間科学 Rodriguez, "Beyond Prejudice and Pride"

・Julia Rodriguez, "" Isis 104 (2013): 807–817.

http://www.jstor.org/stable/10.1086/674947

 

 

ABSTRACT

 

もしラテンアメリカが世界の科学の生産者であるなら、どのようにして知識がある特定の場所から一般的な循環へと移るのだろうか。そしてその地域の環境への影響と適合性についてはどうであろうか。D. Livingstoneが“科学の地理学”と呼ぶものの枠組みにおいて、ラテンアメリカがこれらの問題を探求するための肥沃な土壌を提供する。この概念は、地方特有の状況を科学知識の国境を超えた生産のための重要な要素として含み入れるものであるが、しかしその究極的な目的は、単に地域のミクロヒストリーではない。科学的知見は地方的であり世界的でもある、特殊的であり普遍的でもある、偏狭なものであり超越的なものでもある。

著者はこの論考を通して、19世紀後期から20世紀にかけてのラテンアメリカにおける人間科学の歴史的動向を分析する。そしてグローバルとローカル、あるいは中心と周辺といった二項対立の構造を解体するために、それらの観点を統合した研究の仕方を訴えている。

 

 

THE HUMAN SCIENCE IN LATIN AMERICA

 

 人間科学の特徴は、しばしば個人や人種に対しての仮定や規定を含んでいることである。特にラテンアメリカにおいては、ヨーロッパや“普遍的な”人類との比較を招くことが常とされる。このとき科学の議論は“私たち”が優れているか劣っているか、など人種的血統や民族性についての比較による論点を持ち上げる。ただし、これらの研究の実際的な主題は、例えばアルゼンチンの犯罪者、メキシコの精神疾患者、アンデス山脈のインディアンなどに注目した地方についてのものである。

著者はここで、ラテンアメリカにおける人間科学の歴史について最近の著述が経てきたとする三つの段階を示している。まず第一に、学問はラテンアメリカの科学者とヨーロッパの科学者の対話を反映してきた。これはしばらくのあいだ科学普及の中心/周辺モデルにより支配されたものである。19世紀後期の植民地独立後のラテンアメリカの科学者たちはグローバルサイエンスを取り入れなければならず、北半球の国々により定義された“普遍的な”科学の一員となることに努めた。第二として、学者たちは“中心”の力を弱め、地方行為者の役割を取り戻すためにポストコロニアル理論を用いるようになった。これらの研究はラテンアメリカの科学をそれ自身の言葉で理解しようとし、かつては認識されなかった地方の功績を見出そうとする。しかしながら古い“中心”も無視してはならない。両モデルの膨大な研究のあとを追って明らかになってきた、多様な側面を同時に注目する方法が第三の段階である。少数の野心ある研究が関連性の“虫食い穴”を求めて多結節な繋がりとプロセスを取り扱っている。そのような動的・多層的なアプローチが権限と力についての葛藤を解く可能性を有しているのである。

 

 

PREJUDICE: CENTER, PERIPHERY, AND THE AMBIVALENCES OF EUROCENTRISM

 

 ラテンアメリカでは人類学、犯罪学、心理学、社会科学、さらには地理学、歴史、教育といった科目を包含する人間科学が19世紀後期に実を結び、20世紀には制度化され確立された。これらの分野は、独立後の混乱が退き安定を取り戻すつれ、そして多くの国々で公共事業、公衆衛生、教育などに集中した制度作りが進むにつれ、1870年ごろ以降に急速に拡充した。

20世紀初頭の10年間に、ヨーロッパの科学に携わったラテンアメリカの科学者たちは、それらとの相反的な関係を強調した。その学問的性質にも関わらず、19世紀後期にヨーロッパ実証主義により先導され形成された人間科学は、20世紀になり学者間の大陸横断的な関係に矛盾や躊躇いを生じたのである。ラテンアメリカ人がヨーロッパ科学の高くそびえる象徴と考え方について感嘆と憤怒の念の狭間に捕らわれる一方で、ヨーロッパの科学者たちはますます謙遜し疑念を投げかけられた。その結果、多くの試みがヨーロッパモデルと、伝統の重みや半封建的構造のもとで苦心する多文化社会の煩雑な現実とを和解させるために行われた。

 

 

PRIDE: LOCAL SCIENCE AND EXCELLENCE

 

  中心/周辺モデルへの反動として、人間科学の歴史家たちは国のそして地方の科学的な動態に関心を向けた。この傾向は科学と国家の関係に目を注ぐ結果となった。ラテンアメリカの史料は、とりわけ中央集権化した行動主義的政権のもとで、膨大な国家の科学の事例を提供する。優生学はその明確な国家的性格のもとで現れたし、メキシコ合衆国cientificosと呼んだ近代的な技術階級もその際立った例である。しかしながら、国は単に行為者であるのではない。台頭してきた一連の研究は、現地の経験を目立たせ、社会的、文化的、政治的な現状の理解のためにそれらが重要であることを説く。そして図書館員、患者、助手といったエリートではない行為者の観点を考慮に入れ、形式張った科学的考え方についてより広い社会的・文化的解釈を考察する。

一方では、科学はほとんどいつもエリートに関与するという指摘がある。寡頭政治が確立されエリートを再帰的に自己生成するラテンアメリカの国々においては尚更である。また他方では、地方的な研究が社会改革事業を実施する国家の誤りを指摘する。それは市民権を奪われた人々や従属階級の参与、そして工学的努力を口にすることへの抵抗があったことを明らかにする。この学者の意見の分かれは紛らわしいものであるが、ところで事例研究の増加は地方の経験と超国家的な要素の所産とを複合するので、これらの観点をともに持ち上げるものである。R. Salvatoreはこの傾向を強調することで“ローカルとグローバルの交わりの瞬間”に着目する新しい学のあり方を提示している。

 

 

MANY CENTERS: DYNAMIC AND MULTINODAL SCIENCE

 

 ラテンアメリカにおける人間科学の歴史についての最近の研究は、科学知識の循環の多層的・多結節な再整理へと向かっている。様々な角度からの人類学史の研究や、人口調査のような実際に応用された社会科学の歴史はいま関心を惹きつける分野であるし、新しい政策史はローカル/グローバルの動態に非常に敏感である。

 第二次世界大戦以降、ラテンアメリカ、とりわけブラジルは従属理論として知られる政治経済学の著名な学派を生み出し、社会科学理論の“中心”として頭角を現した。この論者は近代化論の模倣的な規定を拒絶し、全世界における富の不均一な配分に注意をひく。その意味で、同理論はポストコロニアル意識の長期的な恐れがあった。しかし、R.Grosfoguelが指摘するには、確かにラテンアメリカは発展や経済政策に関わるアメリカの主導的態度を賢明に切り抜けたが、結局は馴染み深いヒエラルキーを反映した透視画法的な考え方に閉じ込められたに過ぎないのだという。例えば、ラテンアメリカにおける20世紀の社会科学者たちは、彼ら自身の社会における不平等にはほとんど疑いを抱かなかった。

 

 

FINAL THOUGHTS

 

 ラテンアメリカの人間科学の歴史にはまだ課題が残されている。それは多様な社会に対して説明をすること、従属階級を組み入れること、北部・南部の分割を越えて話すこと、さらに徹底して地域の繋がりを探求することである。しかしながら、以上のような既存の枠組みに捕らわれない、グローバルとローカル、エリートとノンエリート、または中心と周辺とを統合したアプローチによりそれは可能となる。ラテンアメリカにおける人間科学は欧米主導の中心/周辺モデルの見方を脱さなければならないが、地方の経験だけに依存したりポストコロニアルの視点に固執してもならない。著者はそのような偏見と高慢を乗り越えた研究が求められると考えている。